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■ 大会発表要旨 ■2008年11月22日(土)1時30分より二松学舎大学 九段キャンパスにて 教室でひらかれる〈語り〉
――安部公房『公然の秘密』を読む―― 齋 藤 知 也 高校一年生が入学し、一月ばかり経過したときのことである。授業中に一人の生徒が「こんなこと質問すると前に戻ってしまって、みんなから『空気読めない』って思われるかもしれないけれど、大事なことだと思うから聞いていい?」と遠慮がちに発言した。そのとき一瞬、教室全体に緊張が走り、それこそ「空気」が変わったように感じた。現代を生きる生徒にとって、「空気読めない」という言葉が持つ重みは、やはり相当なもののようだ。 しかし、これは生徒だけの問題ではない。事柄を「時代の空気」に解消してしまうのではなく、問題の奥底を抉出することこそ大切だろう。質問した生徒は淀みなく進行する授業の「空気」に抗い、人間関係もまだ不安定な状況のなかで、ある意味で己を懸けて声を発した。そのとき、おそらく彼女は自分自身にとっての授業の〈文脈〉を必死に見出そうとしていたのである。さて、私たち大人は、日常のなかでそのことがどれくらいできているのだろうか。残念だが、「空気」に感染しているということの自覚そのものが欠けている状況があるように思われる。言い換えれば、そこには〈主体〉が喪失しているのである。 だからと言って、主体がアプリオリに「ある」と捉える実体主義に回帰すれば良いわけでは勿論ない。「言語論的転回」は徹底的に踏まえられなければならない。しかし、主体など「ない」のだと嘯くだけの、底の浅いポストモダン的言説では、教育という営みそのものが成り立たない。第三の道が求められる所以である。「空気」と〈文脈〉という言葉を用いるのであれば、「空気を読む」ことから「〈文脈〉を掘り起こす」ことへの転換が求められるのである。学習指導要領改訂問題も、その次元で論じられなければならない。 創り出すものとして〈主体〉を考えること、それは〈自己〉と〈他者〉の癒着の問題を超えようとする営みでもある。短編小説『公然の秘密』(安部公房)を読むという行為の中にも、その問題を顕在化させることができる。この作品では、登場人物である「ぼく」が同時に「語り手」となる。しかしながら、その「ぼく」が、どのように語られているかという領域をこそ、読まなければならない。〈語り〉はひらかれるものとしてあり、「公然の秘密」の寓意性は私たちの生の深層を撃つ。高校二年生の授業を基に、考察してみたい。 (自由の森学園中・高校) 隠蔽された〈文脈〉 ――『舞姫』を視座として―― 服 部 康 喜 テクストを〈読む〉とはどういうことなのだろうか。この永遠の疑問に対する通路を開かんとするのが、国語教育と文学研究に課せられた共通の使命であると私は考えている。職者が言うように(森田直子『文字の経験』)、〈読む〉とは文字を音声言語に翻訳することでもなければ、文字の連続を物語として記憶することでもない。文字の背景にあって、それ自身としては見ることも触れることも出来ない観念=意味を〈読む〉ことであると。そうであるならば、〈読む〉とはそれ独自の技術をともなう知的訓練の場でなくてはならない。今回のテーマである「〈文脈〉を掘り起こして」に関していえば、文脈を掘り起こす、あるべき知的技術と訓練の場としての〈読み〉の可能性を考えていかなければならないからである。なぜなら、文脈とは見えない観念=意味がその姿を明示する連関のことなのだから。 さて『舞姫』に関して言えば、テクストの近代性を尋ねる長い歴史があったことは言うまでもないし、またその不毛性についてもいまさら言うまでもない。しかし近年、テクストにおける近代性を問う―たとえば作中人物の近代性を追求することから、テクスト自体の近代性を問う―〈語り〉の機能を問うことへと大きく転回したことは指摘しておかなければならない。そのことは同時に、『舞姫』を問うことがそのままで近代小説の質を問うことへと地続きに繋がる地平を開いたと言える。それは田中実氏(「手記を書く語り手、語り手を捉える〈機能としての語り手〉―『舞姫』再読―」)の大きな貢献であるが、氏の言う〈語り〉の臨界点から折り返してくるさらなる〈語り〉が浮上させる文脈を望見することで、〈読み〉の可能性を探求したい。さしあたっては、大田豊太郎の「恨み」と「弱さ」に焦点を絞って、語りえぬものをなお語らんとするテクストの力学に迫りたい。 (活水女子大学) 不在のものの可視化 ――物語り行為をめぐって―― 野 家 啓 一 人間は言葉を獲得することによって、眼前の可視的対象のみならず、不在の対象や事態(過去、未来、虚構)について語ることが可能になった。天国や地獄しかりである。つまり、言葉の力がもたらすのは、知覚や行為を基盤とする日常的生活世界から記憶や想像力に支えられた非日常的な物語り世界への飛翔にほかならない。この水平的言語行為(はなし)から垂直的言語行為(かたり)への転換を通じて、われわれの経験しうる時間・空間は著しく拡張され、また奥行を深める。当然ながら、垂直的言語行為といえども、言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)のなかで学び覚えられた手垢のついた言葉をもってなされるほかはない。そこでは伝承され沈殿した意味の地層が作品理解の前提ないしは「先入見」として働いているのである。他方で、垂直的言語行為によって形作られた文学作品は、インガルデンの言う「無規定箇所」を数多く含んでいる。こうした意味の空白状態あるいは不確定性は、読者の想像力によって補完されねばならない。いわば、沈殿した意味の地層は「発見」され、無規定箇所の空白の意味は「発明」されるのである。この両者の相互作用のダイナミズムは、部分と全体の間の循環関係、すなわち「解釈学的循環」と呼ばれてよい。それはまた「見えるもの(本文)」と「見えないもの(文脈)」との循環でもある。ハイデガーの言葉を借りるならば、「決定的なことは、循環のうちから脱け出ることではなく、循環のうちへと正しい仕方で入りこむこと」(『存在と時間』)なのである。むろん、唯一の「正しい仕方」があるわけではない。そこにおいて求められているのは、作品の正しい理解であるよりは、むしろ理解の「合理的受容可能性」(パトナム)と言うべきものだと私は考えている。 (東北大学) 2008年11月23日(日)1時30分より二松学舎大学 九段キャンパスにて 快楽を語る言葉 ――1980年代フェミニズムと森瑤子の〈女ざかり〉―― 生 方 智 子 1960年代末に全共闘運動が終焉を迎えると、その後の〈政治〉の舞台では女性たちが脚光を浴びるようになる。七〇年代はウーマンリブが、80年代になるとフェミニズムが隆盛し、さまざまな女性による活動や言説が繰り広げられた。女性が自身のセクシュアリティを語った『モア・レポート』が発表されたのは83年だった。 大塚英志は『「彼女たち」の連合赤軍』(角川書店、2001・5)のなかで、「全共闘の時代の〈左翼思想〉そのものが最終的にサブカルチャーの中に崩れ落ちていく性質のもの」だったのであり、連合赤軍に参加した女性たちが求めていた可能性は80年代消費社会において実現されたと論じている。そして「80年代のフェミニズムは思想などではなく消費する女性たちの心性としてのみあった」と断ずる。確かに80年代社会において消費による自己実現が大衆化し、「〈私〉探しゲーム」(上野千鶴子)が可能となった。バブルが崩壊しプレカリアート運動が興隆する今日において求められるのは、資本主義経済に対する批評的な視座を維持しながら女性の自己表現の時代を検証することだろう。 ラディカル・フェミニズムとマルクス主義フェミニズムという理論は、資本主義経済下の市場において周縁化され搾取される領域となった再生産の場を問うている。本発表では、これらの理論を踏まえつつ、80年代のファッションリーダーとなった森瑶子のテクストの分析を試みる。テクストは、主婦というポジションに身を置く女性のなかに「女となれ」というイデオロギーを食い破って自己変容を遂げようとする存在を見出している。それは、痛みや快楽といった身体によって感受されるものであり、〈女ざかり〉と名づけられるものである。発表では、デビュー作『情事』と、フェミニストカウンセラーである河野貴代美のカウンセリングを経て発表された『夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場』を主に取り上げ、それらのテクストを通して見えてくる80年代フェミニズムの可能性の圏域を考えてみたい。 (立正大学) 村上春樹という逆説 ――浮世草子・寓言・レトリック―― 篠 原 進 「一九七〇年十一月二十五日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている。(中略)我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジに座ってホットドッグをかじった。午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障していたせいで、音声は殆んど聞きとれなかったが、どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。〔村上春樹『羊をめぐる冒険』「群像」一九八二年八月号〕。 一九六九年の終わりから七〇年代の初頭にかけて、キャンパスを駆け抜けた疾風。いわゆる大学紛争。そんな政治の季節の逆説として登場した、村上春樹の文学。政治的なもの、社会的なものと一定の距離を置く姿勢。デタッチメント。そんな「逆説」が、「あたりまえ」となった時、文学の凋落がはじまった。 テレビ局を中心とするメディアが造る時代の空気。本や新聞を読み、政治や社会について考えることを「クライ」と批判し、人と違った発言をすると「空気が読めない」と斥ける。無知を売り物にするお馬鹿キャラが、連日繰り広げるカラ騒ぎ。その反映としての文化や文学が、もし薄っぺらでグロテスクなものだったとしたら、私たちが「共同制作」した自画像と甘んじなければならないのかも知れない。 読者の嗜好や流行の感知。芸能界とコラボレート。人気演劇のノベライズ。人気絵師の挿絵。ヴィジュアルな板面。付録。低価格。誰にも分かる平易な文章。毒のない笑い。政治権力と距離を置き、筆禍を避ける。 今から三〇〇年近く前、京都の書肆八文字屋が用いた販売戦略。文学が限りなく商品化し、作者名でなく八文字屋本というブランド名で呼ばれる時代にあっては、「共同制作」は自明のことであった。それゆえ、今回の報告では問題軸を逆に取り、そうした制約下で西鶴をはじめとする浮世草子作者たちが、寓言やレトリックを武器にどこまで主体的に著作活動を行うことができたのかを検証することとする。 そうすることで、「あたりまえ」を反転させ、文学の醍醐味を改めて確認したい。 (青山学院大学) 2000代の〈文学〉と読者 斎 藤 美奈子 二〇世紀末、文学の停滞がいわれる時期がありました。しかし二〇〇〇年代に入って、「もしかして文学は流行ってる?」と思われる現象も散見されるようになりました。片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」や、綿谷りさ「蹴りたい背中」のようなミリオンセラーが生まれたり、ケータイ小説が爆発的にヒットしたり。最近のトピックスでいえば、「蟹工船」のまさかのヒットなどがあげられましょう。いずれにしても旧来の文学観では測れないような事態が起きていることは確実で、それは二〇〇〇年代にデビューした作家たちの作風にも反映しています。マンガやゲームなど、文学に対する他メディアの影響がしきりにいわれたのは八〇年代ですが、近年ではそれはもう「当たり前」すぎて、だれも指摘しなくなりました。「表現形式の新しさ」と「物語内容の古さ」が同居しているように見える現在の状況を、書く側と読む側、両方の変容との問題から考えたいと思います。 (文芸評論家) このページのトップへ Copyright (C)2006 日本文学協会, All Rights Reserved.
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