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7月号特集 戯作の領分
近世の中期から後期にかけて世に現れた小説に、「戯作」と呼ばれる一群がある。それは一般的に、洒落本・黄表紙・合巻・滑稽本・人情本などのジャンルの総称で、滑稽や諷刺によって当世を描き出そうとしたものであると説明される。
この定義は、確かに「戯作」の特性や傾向を言い当ててはいよう。しかし、その一方で、「戯作」という術語の指す範囲がきわめて広いことに起因して、見落とされてしまっているものも少なくないのではなかろうか。中村幸彦『戯作論』の刊行から半世紀以上が過ぎた今、「戯作」という術語を辞書的な定義からいったん解放し、様々な視角から検討を加えることで、その本質についてあらためて考えてみてもよいだろう。
そのためには、まず何よりも「戯」とは何であるのかという問いに立ち戻ってみる必要がある。これは雅文芸に対する卑下の意識を伴うものであるが、その一方で、「戯」れることによって初めて表現し得るものがあることに、作者たちは自覚的であった。彼らは何のために/何に対して/いかなる方法で「戯」れたのか。そしてそれによって、何を表現し得たのか。この問いに答えを出すには、近世初期から中期にかけての仮名草子・浮世草子や初期読本、さらには狂歌・狂詩・川柳などの韻文もまた検討の俎上に載せる必要があろう。時期やジャンルに拘泥せず、近世文学の「戯」について考えてみることで、「戯作」の新しい姿も見えてくるように思われる。
中野三敏「西鶴戯作者説再考―江戸の眼と現代の眼の持つ意味―」(『文学』15-1、平成26年1月)が学界に議論を巻き起こしてから、もうすぐ十年が経とうとしている。この間、戯作研究の分野ではいくつもの新たな問いが提起され、意見が闘わされてきた。その渦の中から、新しい「戯作論」が生まれることを期待したい。
記
一、締切 2023年4月15日
一、枚数 35枚(400字詰)以内
『日本文学』編集委員会
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