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国語教育部会 2009年度 活動報告

齋 藤 知 也

   国語教育部会は、ほぼ月一回、第3土曜日の16時30分から、大塚の事務所で例会を行っている。テーマや人選は冬に行われる合宿で討議の上決められているが、常にアンテナを広げ、注目すべき教材研究や実践報告、それを支える〈読み〉の原理的考察、あるいは学習指導要領の批判的検討等、状況に切り込む問題提起がなされるように努力している。
 毎月の例会の他にも、5月には場所を借りての拡大例会(シンポジウム)、6月には日文協全体で行われる研究発表大会の国語教育部門、8月には国語教育部会独自の取り組みとして夏期研究集会、11月には大会の「国語教育の部」が行われる(なお、拓殖大学で行われる拡大例会の内容については4月号、研究発表大会、夏期研究集会については今月号にそれぞれ掲載されている。参加していただければ幸いである)。
 毎回のように継続的に参加する人もいる一方で、「日本文学」本誌や日文協のホームページに掲載されたテーマを見て、関心を持たれたときにお見えになる方もいる。小学校から大学まで職場の違う人が集まったり、大学院生や教壇に立ち始めたばかりの若い人から、40年を超える長い経験を持つ広い年齢層の方が場を共にするのも、国語教育部会の特徴と言える。それゆえ、例えば小学校の定番教材の実践報告について、中学校や高等学校の教師の視点から検討を行ったり、研究者の〈読み〉の理論について小学校の実践者の目線から討議することが可能になる。国語教育研究と文学研究の相互乗り入れを志す日文協国語教育部会ならではの魅力である。また、「語り合う文学教育の会」「科学的『読み』の授業研究会」「ことばと教育の会」など、さまざまな民間教育研究団体で活躍されている方が全国各地からお出でになることもあり、大変刺激的である。
 私などは、十4年前はじめて夏期研究集会に出かけたときにはそこで展開されている議論の内容になかなかついていけず、とまどいも覚え、例会に継続的に参加したり、会員として入会するまでには少し時間がかかってしまったものである。それでも「正解到達主義」と(「ナンデモアリ」というレベルでの)「正解到達主義批判」の双方を超えていかなければ、毎日の授業そのものが立ちゆかず、その問題意識が、私を国語教育部会の議論から離れさせなかった。また、そのようにわけがわからないまま参加しはじめた私でも、質問や発言がしやすい雰囲気で例会や夏期研究集会が行われていることも、幸いであった。先達が築き上げてこられた率直で自由闊達な気風が、それを可能にしたのだと思っている。
 そして現在では、自身の多忙極まる状況のなかでも例会が待ち遠しい。なぜならば、自らが教師として日々教室で突き当たっている「学びからの逃走」問題や対話が成立しにくくなっている教室空間の問題の奥底が、部会の議論と繋がっていると感じるからである。さらに言えば、児童、生徒、学生(さらには私自身)が抱えている現代社会を生きる上での閉塞感をどう捉え、いかに超えていくかという問いと、毎回なされる報告や問題提起が重なって見えるからなのである。もちろん、その繋がり方・重なり合い方は、参加するメンバーそれぞれによって違うのであるが、それが交流されることによって、また新たな視野がもたらされ、自分の問題意識も深まってくるように感じられる。
 おそらくそれは、部会が掲げてきているテーマとそれに基づく議論が、臨床的なものになっているからだろう。これまで追究してきた「文学教育の根拠」「文学教育の転回と希望」等々のテーマはどれも、例えば「教室で文学を読むことにどのような意味があるの?」「文学の読みに正解はあるのか、ないのか」「文学を読むとはどういう行為なのか」等、「文学教育」を自明なものとしない児童・生徒・学生一人ひとりの素朴な疑問と響きあうものになっていた。また本質的には、「言語論的転回」を徹底的に引き受けたうえで、なおかつ「フラット化」(「日本文学」3月号、「第64回日本文学協会大会特集号」における報告・討論・子午線を参照されたい)に抗する〈主体〉をどのように再構築しうるかという課題に象徴されるような、「ポスト・ポストモダン」を展望するものにもなっているのである。11月に行われる大会においてはこの数年、茂木健一郎氏、内田樹氏、野家啓一氏、岡真理氏をそれぞれお招きし、国語教育の分野をより広い視野で検討するとともに、状況に切り込むための方途を探ってきた。ご参加いただいた方々には、それぞれの領域を超えて、「語りえぬもの」をいかに「語ろうとするか」という難問をめぐって、議論がなされていることをお伝えできたのではないかと思っている。また、国語教育の特集号である「日本文学」8月号においても、教育にとって文学とはどのような〈価値〉を有するものなのかという問いが、そもそも文学を生成させている〈言葉〉とは何なのかという考察と共に追究されている。
 それらの問題意識の連続線上にあるものとして、今年の活動テーマ「〈文脈〉を掘り起こす―文学教育と〈語り〉」はある。語りという言葉そのものは、さまざまな民間教育研究団体でも注目されてきてはいるものの、「〈語り〉を読む」とはどういうことなのか、〈物語の語り〉と《小説の語り》はどのように異なるのか、それを教室の実践に生かすというのはいかにして可能なのかということ等については、これから議論していかなければならないであろう。私自身が、突き詰めていかなければならない課題だと感じている。また、〈文脈〉問題は、教室における「読むこと」さらには「学ぶこと」の生命線である。ならば、「還元不可能な複数性」(ロラン・バルト)を潜り抜けた上で、〈文脈〉を掘り起こすということはどういうことなのか。ここには先述した「言語論的転回」を徹底的に引き受けつつ、しかも「読むことの〈価値〉」「学ぶことの〈価値〉」を手放さないという立場が表明されていると考える。ここに、主体・客体の二項の布置ではなく、「第三項」「了解不能の《他者》」という概念装置を必須とする理由もある。
 なお、以上のような問題意識を追究する部会誌として、「日文協 国語教育」を年一回発行している。お求めいただき、ご批評いただければ幸いである。また、「日本文学」本誌と共に、積極的な投稿をお願いしたい。
 この文章を読まれた方のなかには、問題意識そのものについてはどこか重なり合うものの、「なぜこのような用語が使われるのか、分からない」と感じられた方もいらっしゃるのではないだろうか。そういう方にこそ、例会をはじめとする部会の活動に一度ご参加いただき、議論に加わっていただければありがたく思う。

(『日本文学』2010年5月号からの転載)


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