6月18日(日)16:00~
テーマ 宮澤賢治「よだかの星」考――生存競争のその先
報告者 大島丈志
【予告】
「よだかの星」は、宮沢賢治の未発表作品である。大正9年~大正12年頃に創作されたと推定される。
甲虫や羽虫の命を使って己を保たなければならない殺生の苦しみは、賢治作品に多く描かれる生存のための食(特に肉食)の苦しみ(「存在の罪」)である。仏教では「不殺生」が「輪廻転生」と関わり重要であり、この問題を突き詰めるのため、よだかに自らの食について悩ませるという逃げ場のない、過酷な課題を与えているのがこの作品である。
「よだかの星」に関しては、その終結部を巡って議論がなされている。
肯定的に捉える先行研究として、梅原猛は「近代日本文学が生みえたもっとも美しい、もっとも深い、もっとも高い精神の表現」(『地獄の思想』中央公論社、1967年)とする。一方で、伊藤眞一郎は「自己愛と表裏した自己嫌悪」(「宮沢賢治「よだかの星」試論 日本文学研究資料新集1989年・初出『安田女子大學紀要』1985年)と捉える。
黄英は「自分の命を捨てる行為は時には他者の為を主な目的ではなく、「修羅」の意識は「まこと」に至るためには積極的な意味も持っている。「加害者でなくなると同時に、自分の価値も認められるような死」」(「よだかの死と修羅意識」(『九州大学大学院比較社会文化学府比較文化研究会』2008年11月)と表現する。
奥山恵は「よだかの星は、よだかにとって幸せを意味するものではない。それは自らの悲劇を意味するものだ。語り手は、悲劇の美学をもって語り終えるしかなかった。その美しくも厳しい結末に視点を置くとき、読み手はそれを「すごい」と言えるだろうか。」(『宮沢賢治 童話の世界 子ども読者とひらく』冨山房インターナショナル、2014年12月)として否定的にその終結部をとらえている。
中野登志美は「青い美しい光を放つ星へと転生した「よだか」は、容貌の醜さだけではなく、弱者の生命を奪わなければ生きられないという罪意識からも 解放される。「よだか」の「やすらか」で「少しわらって」いる面もちは、容貌の醜さから解放されたいという願望、そして食物連鎖によって生じる罪意識に対して、自分が解決し得る最善策を成し遂げたことの「よだか」の達成感や満足感の表れであろう。」(『論叢 国語教育学』広島大学国語教育学研究会、2020年7月)として解放や満足を読みとく。
宗教的な側面からの読みとしては、賢治が「法華文学ノ創作」を志して創作した初期の作品であることを踏まえ、仏教思想の観点からの解釈がある。西田良子は「〝欣求浄土、厭離穢土〟の仏教思想から生れた寓話」とみて「宗教における超倫理的な解脱」(「作品紹介“よだかの星”解説」『四次元』別冊、1957年9月)とし、染谷昇は「他力本願から自力本願へ」 (「『よだかの星』の鑑賞」『日本文学』日本文学協会、1970年2月)という大乗仏教の教えを説こうとした説を唱える。萩原昌好は「〝修羅の成仏〟」(「『よだかの星』私見」『国文学 解釈と鑑賞』1984年2月)とする。
宗教的考察のなかに、見田宗介による焼身による転生との見方(『宮沢賢治――存在の祭の中へ』岩波書店、1984年2月)がある。見田宗介における宮沢賢治とその作品の受容は「銀河鉄道の夜」が有名であるが、焼身という点では、「銀河鉄道の夜」の蝎の死/カムパネルラの死と「よだかの星」のよだかの死、「グスコーブドリの伝記」のブドリの死は繋がって考察されている。見田はその上で、誰かを犠牲にして生きるという「存在の罪」に関し、輪廻転生も含めた長い時間で考えるならば、生存競争の殺し合いではなく、生かし合い(自らを捧げる)として捉えることで、宮沢賢治作品に新たな地平が見られると考察した。この見解には首肯できる点もある。
ただし、「よだかの星」のよだかの死と「銀河鉄道の夜」の蝎の死/カムパネルラの死、そして「グスコーブドリの伝記」におけるブドリの死は同一のものだろうか。特に誰かの役に立つ(生かし合い)ことの具体性の無いよだかの死に関しては再考が必要だろう。見田における、「よだかの星」の受容を踏まえ、そこから、宮沢賢治の「よだかの星」を逆照射し読みを進めていきたい。
考察にあたっては、従来注目されてこなかったよだかの攻撃性、宮沢賢治も読んだとされる丘浅次郎『進化論講話』(東京開成館、1904年1月)、タイトル「よだか」を斜線で消して左上に「ぶどしぎ。」と書き、修正しようとした形跡がある点も考慮する。