3月19日(日)16:00~~
テーマ 太宰治「清貧譚」を読む
報告者 峯村康広

【予告】

 私が高校2、3年のとき、国語の授業で読んだ作品で特に印象に残っているのが、中野重治「歌のわかれ」、草野心平「たまごたちのいる風景」、そして太宰治の「清貧譚」である。授業で担当教師がどのような指導をしたのか全く忘れてしまったのだが、ただごく素朴に、人間が菊の苗に変わってしまうという不思議さに、曰く言い難い感銘を覚えたように記憶している。もともと「菊の精」だったのだから当たり前ではないかと言われてしまえばそれまでなのだが、それは後付けであり、それなら「精」=spirit(気・目に見えないもの)として跡形もなく消えてしまうかというとそういうわけではなく、やはり「菊の苗」=植物(生)として現前している。決して生体としてあるとは言えないのだけれども、かといって死んでしまったわけではない。なぜ「菊の苗」に変じたのか、あるいは「菊の苗」に変じるとはどういうことなのかという不思議さは依然として読者の側に残される。

 ところで、これまでの「清貧譚」論は多かれ少なかれ、作品が依拠した「聊斎志異」との比較を中心に試みられてきたと言える。もちろん、60~70年代に見られる作家論から、90年代以降のテクスト論を踏まえた詳細な作品分析へという変遷はあるにせよ、今日に至るまで両者の比較を踏まえた考察が専ら主流であるように思われる。語り手が作品冒頭の「能書き」で出典を明らかにしている以上、原典との比較を前提として読みが方向づけられるのも当然である。近年の傾向である「新体制」言説や「ロマンチシズム」をめぐる解釈を参照枠にした作品理解も同様に、かかる「能書き」の実践から得られた「効能」であろう。別に、比較を前提とした「清貧譚」論の成果を疑問視したいわけでは全くないし、むしろ同時代言説・文化歴史状況等を導入した作品分析が、当初の素朴な作家論から格段に作品の読みを深めた印象を持つ。しかし、にもかかわらず、人間が菊の苗に変わってしまうというあの不思議さが腑に落ちたようには感じられない。

 そういえば物語は、馬山才之助が「菊の苗」を媒介にして陶本姉弟と出会うというエピソードに始まり、陶本三郎が「菊の苗」となって馬山才之助の手の中に残される(もちろんその後、才之助の「庭に移し植えられ」て花を開くのだが)形で結ばれる。物語はやはり「菊の苗」軸にして首尾が呼応しているように見える。であれば、改めて「菊の苗」が意味するものを読むこともそれほど無駄ではあるまい。報告では、原典との比較はひとまず置き、できればあの「不思議さ」に一定の解答を見い出すことを目指したいと考えるが、まずは「菊の苗」を売る/売らないをめぐるエピソードが何を提示しているのかといった観点から考察を進めようと、今のところ考えている。